量産型女子大生に対する示唆:俺俺
表紙が結構圧倒されて、前から気になっていた小説を読んでみた。
表紙を見てわかるように、同じような人が合理化された食べ物を同じような人たちによって食べされられている。なにか合理化された社会であったり、現代の闇を感じた気がしていて、大学生のときに書店で見かけた時から気になっていた。
自己と他者の違いとは
あなたと他者の違いってなんだろうか。もちろん顔や出身・体つきなどで違う箇所は多くあるだろう、でもそれだけで本当に違うといえるのだろうか。
同じような価値観を共用され、同じような教育を生きてきて、同じような社会で生きている私たちは本当に他者なのだろうか。
普通ってなんだろうと考えた時、大体の人で普通のある一定の価値基準は同様であろう。これは古く言えば宗教から紐付いてきた倫理観であったりするとは思う。ただ近代以降に急激にナショナリズムが形成され、同じような目標論理で動く社会が形成されていき、さらにグローバリゼーションの煽りの中で、全世界がまるで同じような力学によって動かされているのではないだろうか。
ある種の同調圧力によって、知らず知らずのうちに私たちは他者と一体化していっているのではないだろうか。
そうしてふとした瞬間に目の前の俺はオレであり、オレは俺でもあるという事実に気づいてしまう。
そういった現代社会の同一価値観・同じような人種・メディアからの一方向のプロパガンダ。そういったものに警笛を鳴らしているのではないだろうか。
量産型女子大生
この本をよみながら、下記記事を思い出していた。
みんな同じような姿をしている女子大生達である。彼女らは仲間はずれになるのが怖く意識的に、皆と同じようなファッションをするようになっている。それはSNSなどの発達により、更に同調化が進んでいる。